毎年4月の第3日曜日、京都市北区の鷹峰(たかがみね)にある常照寺(じょうしょうじ)で「吉野太夫花供養(よしのだゆうはなくよう)」が行われる。京都の伝説の名妓、吉野太夫の墓がこの寺にあることにちなんだ行事である。
吉野太夫は、江戸時代初期の京の都の遊郭「六条三筋町」を代表する名前で、常照寺に墓があるのは二代目吉野太夫。太夫とは、舞はもとより、茶道、香道、書道から、和歌、俳句、囲碁など諸芸に秀でた遊郭の女性の最高位。「才色兼備」という言葉があるが、まさに容姿端麗のみならず才能にも恵まれた女性である。
わずか14歳にして太夫となった二代目吉野太夫は、そうした「遊宴のもてなし」の諸芸に優れていただけでなく、人情にも厚く、「天下に並ぶ者のない太夫」とうたわれた。夕霧太夫、高尾太夫とともに「寛永三名妓」といわれ、美貌と才能に恵まれたその名声は遠く中国にまで届いたとのこと。そして、寛永8年(1631)、26歳のときに豪商の灰屋紹益に1300両で身請けされたのだが、そのときの灰屋と関白近衛信尋の「吉野太夫争奪戦」は、歌舞伎の題材になるほどの一大ゴシップだったという。
吉野太夫が暮らした六条三筋町の遊郭は、寛永17年(1640)に現在の下京区の西部に移されて「島原」という名前になった。ちょうどそのころ、天草四郎の「島原の乱」の騒ぎがあり、移転のあわただしさや遊郭のにぎやかさをそれにたとえて「島原」と呼ばれるようになったという。京都唯一の公許遊郭として繁栄し、江戸の吉原、長崎の丸山とともに「日本三大遊郭」と呼ばれた。
吉野太夫は、その後、寛永20年(1643)、38歳の若さでこの世を去り、洛北の常照寺に葬られた。この寺は、元和2年(1616)に日乾上人が開創、鷹峰檀林と呼ばれて多くの僧が学ぶ学問所であった。吉野太夫は、この日乾上人に帰依し、寛永5年(1628)、23歳のときに私財を投じてこの寺に朱塗りの門(吉野門)を寄進した。こうした縁から常照寺が吉野太夫の墓所となり、太夫ゆかりの茶室「遺芳庵」も残る。
「吉野太夫花供養」では、近くの源光庵から常照寺本堂まで「太夫道中」で島原の太夫が高下駄、内八文字で優雅に練り歩き、墓前供養祭が行われる。そして、太夫による舞の奉納や、野点(のだて)の奉仕も行われる。ちょうど、吉野太夫をしのんで植えられたという境内の吉野桜も満開のころである。