5月の第4日曜日、みちのくの古刹(こさつ)「毛越寺(もうつうじ)」で、「曲水の宴」が行われる。「曲水の宴」とは、平安時代に京の都の公卿たちの間で盛んに行われた雅な「遊び」だが、それがなぜ、この東北の寺で今も行われるのか。
その背景には、平安時代末期に中尊寺、毛越寺がある平泉(ひらいずみ)に、京都に比肩する文化を築いた「藤原三代」の栄華の歴史がある。
平安時代、京都の朝廷にとって奥州(おうしゅう)は北の辺境であったが、その奥州の領主となった藤原氏は、11世紀後期に登場した藤原清衡(きよひら)によって勢力を伸張していく。そして清衡が、現在の岩手県南部、北上川と衣川の間に開けた平泉に居館を置いたところから、この地は大いに発展し「みちのくの都」となった。
この清衡を初代とし、息子の基衡(もとひら)を2代目、孫の秀衡(ひでひら)を3代目とする「藤原三代」の100年間が、この奥州藤原氏の黄金期である。藤原氏の繁栄を支えたものの一つが金であったといわれ、その象徴が藤原三代の遺体が納められている中尊寺「金色堂」。まさに黄金期であった。
戦乱が続いた奥州に平安をもたらしたいという初代清衡の願いが中尊寺となり、それを受け継ぎ発展させた2代目基衡は、中尊寺をはるかに上回るスケールで毛越寺を造営。そしてさらに3代目秀衡が増築を加えた毛越寺は、12世紀後半、堂塔40余、僧坊500余という壮麗な大寺院となった。
藤原三代の理想は、この北辺の地を仏国土にすること。その理想を具現化したという、毛越寺の広大な庭園は「浄土庭園」と呼ばれる。それは平安時代に書かれた日本最古の造園書「作庭記」に基づくもので、浄水をたたえた大泉が池に州浜、立石、築山、遣(や)り水の石組みなどが配される。
この遣り水の曲流に杯を浮かべ、流す。そして所定の位置に座した何人かが、自分の前を杯が通り過ぎないうちに歌を作り、杯を取り上げて飲み、次へと流す。これが「曲水の宴」で、もともと朝廷の年中行事として行われていたもの。まさに京文化のむこうを張った平泉文化の華ともいえる行事である。
ただ、京都の城南宮などで今も行われる「曲水の宴」は「きょくすいのえん」だが、毛越寺では「ごくすいのえん」と呼ぶ。また毛越寺の読みの「もうつうじ」は、越を「おつ」と読んで「もうおつじ」と呼ばれていたのが転じたものという。