北九州市の小倉は、毎年、7月の第3土曜日をはさんだ3日間、町中が「ドンガ、ドンガ」という勇壮な太鼓の音と「ヤッサヤレヤレ」の掛け声に包まれる。小倉祇園祭の「祇園太鼓」を打つ音である。
昭和38年(1963)に小倉、若松、門司、戸畑、八幡の5市が合併して北九州市となるまで、小倉は北九州地域の中心的な城下町であった。関ケ原の戦いのあと、細川忠興(夫人は細川ガラシャ)がこの地で小倉藩40万石の基礎を築く。このとき、城下の平穏と繁栄を祈願して祇園社(現・八坂神社)を建立し、そうして祇園祭も始まった。ただ、小倉の祇園祭は当初から「太鼓祇園」といわれたように、太鼓に特徴があったようだ。
今それは「小倉祇園太鼓」というよりも、「無法松の太鼓」といったほうが通りがよいかもしれない。この小倉祇園太鼓の名手である人力車夫「松五郎」を主人公にした名作小説がある。小倉生まれの作家、岩下俊作が書いた「富島松五郎伝」。昭和16年(1941)、「九州文学」に発表され、直木賞候補作となった。
そして、この小説を名匠稲垣浩監督が2度、映画化する。「無法松の一生」である。戦前の昭和18年には阪東妻三郎(田村正和の父)、戦後の昭和33年には三船敏郎が主演。当時のトップ男優を使って大ヒットし、とりわけ三船主演の作品はベネチア国際映画祭でグランプリを受賞。こうして「無法松」は国民的ヒーローとなり、映画の終盤で彼がたたく小倉祇園太鼓の「暴れ打ち」「流れ打ち」は、「無法松の太鼓」として強く印象に残るものとなった。
「町じゅうはふろ場のようにむれていた。太鼓の音、鉦の音、声高に叫ぶ露天商の声。かくて山車を引く子どものヤッサヤレヤレの掛け声が、ムンムンする人いきれに混じって・・・」これは「富島松五郎伝」の一節だが、真夏の祭り、小倉祇園祭の雰囲気が活写されている。
もとは竿(さお)に吊(つ)った太鼓をたたいて歩いたが、明治以降は山車(だし)に太鼓を載せ、それを若衆がたたいて町中を巡るようになった。全国的にも珍しいといわれる「両面打ちの小倉太鼓」。
そうした伝統の打ち方を、21世紀の今も「現代の無法松」たちが競い合うのである。