1986年、ラオス人民改革党第4回党大会で打ち出されたチンタナカーン・マイ政策(新思考政策 社会構造改革のための政策)のうち、経済政策の分野での自由化政策。それまでの78年の3カ年計画、81年の5カ年計画では、社会主義国家建設期として、農業生産の増大をめざしたが、新経済メカニズムでは世界銀行などの指導のもとで統制価格、貿易、為替レートの自由化を実施した。しかし、同政策は97年のアジア通貨危機に際してインフレを引き起こし、IMF(国際通貨基金)への不信が広がるとともに、民営化見直し論が強まった。また、1党支配体制維持を目的とするマルクス・レーニン主義への回帰をもたらした。ラオスは2001年からIMFの貧困削減・成長ファシリティーの枠組みで融資を受け、自由化と貧困削減を両輪とする政策を実施している。経済成長戦略は外資の誘致をめざしたものだが、内陸国であることが障害となっている。その克服には法整備の推進と、拡大メコン地域経済協力プログラム活用の必要がある。