大正デモクラシーの政治用語。今日の政治にも、いくらか違った意味で転用されている。憲政とは憲法にもとづく政治、立憲主義を指す。憲政有終の美や憲法擁護(護憲)などの用語と並んで用いられた。中世ヨーロッパでは、成文化されているかどうかにかかわりなく国家の統治に関する根本原理があると考えられており、アメリカ革命とフランス革命をきっかけにヨーロッパに、やがて世界的に憲法の制定の運動が広がる。日本では明治初期の自由民権運動は、憲法の制定と国会の開設とを同時に要求した。そして大正デモクラシーでは、元老と藩閥の政権独占と官僚を閣僚に任命する慣行に反対し、多数政党、いわゆる護憲政党連合の議員からなる内閣、いわゆる政党内閣を要求する運動となった。1912年(大正元年)から翌年2月にかけて、「桂軍閥官僚」内閣に対する世論と大衆運動を背後にした政党の動きと、24年(大正13年)1月から6月にいたる清浦「特権」内閣に対するいわゆる護憲三派の反対運動と二度の盛り上がりがあり、後者は「普選」獲得運動に発展していく。前期に憲政擁護の国民運動を指導して桂内閣を倒した犬養毅と尾崎行雄は、「憲政の神様」とも呼ばれた。戦後の政治では、護憲はもっぱら憲法第9条と基本的人権の擁護をさす言葉となり、憲政の常道は、例えば片山内閣から芦田内閣への政権授受(タライ回し)を攻撃する政界用語として使われた。93年総選挙で自民党が一時政権を離れ、政局の変動が迷走する過程では、政策形成の官僚依存を非難し、国民に対して直接に責任を取りえるような政権運営を要求する論争的な言葉として用いられている。