外交問題としての靖国神社参拝問題とは、日本の首相が靖国神社に参拝することに対して、おもに中国と韓国が批判をすることによって起こってきた問題である。極東軍事裁判で有罪判決を受けたA級戦犯が合祀(ごうし)されている神社に日本の首相が参拝することは、日本に侵略や植民地統治された人々の感情を傷つける、というのが理由である。1985年8月15日に中曽根康弘首相が靖国神社への公式参拝を行ったことに中国が批判したことが、外交問題としての靖国神社参拝問題の発端である。中国における反発が強かったため、それ以後中曽根首相は参拝を控え、その後の首相も参拝しなかった。96年7月、橋本龍太郎首相は自らの誕生日に参拝したが、これに対しても中国は強く批判し、それ以後、橋本首相も参拝を控えた。
そうしたなか、2001年春の自民党総裁選で小泉純一郎候補は、自らが当選し首相に就任したら、いかなる批判があっても8月15日に必ず参拝すると公約した。これに対して中国や韓国は反発し、小泉首相は8月15日をはずして8月13日に参拝した。それでも中国や韓国の反発はやまなかったが、同年9月11日の対米テロ攻撃という大事件を契機に中韓との関係修復を試み、小泉首相は10月に中韓両国を訪問した。ところが翌02年4月、小泉首相が再び靖国神社を参拝すると、中韓両国は再び小泉首相への批判を強めた。ただ、この時期には首脳交流は継続しており、たとえば02年秋のAPEC首脳会議に際して、江沢民総書記は小泉首相に直接靖国参拝の中止を求め、金大中大統領も新たな国立追悼祈念施設をつくることで解決を図るように求めた。それにもかかわらず、03年1月、04年1月と小泉首相は靖国参拝を継続した。江沢民のあとを継いだ胡錦濤総書記は、当初日本との関係改善を求めたし、金大中のあとを継いだ盧武鉉大統領も当初は日本に歴史問題を再び提起することはないと語っていた。しかし、度重なる小泉首相の靖国参拝は、中韓両首脳が対日融和策をとることを著しく困難にし、中国国内では反日ムードが爆発的に増大、05年春には反日暴動が北京や上海などで起きた。中韓の首脳は、小泉首相が再び参拝するかどうかを注視していたが、05年10月に小泉首相が参拝したため、小泉首相との関係改善は不可能と判断したのであろう。以後、中国は首脳レベルの会談をすべて拒否するようになった。韓国は11月のAPEC首脳会議ではホストということもあって日韓首脳会談を行ったが、それ以後は一切の首脳会談を拒否するようになった。06年、小泉首相は、参拝日を変えようと何をしようといずれにしても、中韓は批判をするのであれば、初志を貫くとして、8月15日に参拝した。
小泉首相を引き継いだ安倍晋三首相は、靖国神社参拝問題を外交問題にすることを好ましくないとして、参拝するともしないとも言わないという方針をとった。その上で、政権発足直後の06年10月、中国と韓国を訪問し、関係修復をはかった。安倍政権が07年9月に崩壊し、これを継いだ福田康夫首相は、靖国参拝をしないと明言し、当面、靖国参拝問題は外交的な問題ではなくなった。
靖国参拝問題には、いうまでもなく、このような外交問題としての側面もあるが、国内においてより本質的には政教分離の問題もあり、また戦没者等に対する国としての追悼のあり方を巡る問題などもある。06年夏には、外交問題としての靖国神社参拝問題が引き金となって、より本質的な議論もなされるようになった。また、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を持ち、参拝されなくなったという発言を書きとどめた、元宮内庁長官の「富田メモ」が公表され、論議を呼んだ。