北海道の北東方に位置する択捉(えとろふ)、国後(くなしり)、色丹(しこたん)、および歯舞(はぼまい)諸島のこと。総面積は5036km2。これらの島々は、日本のポツダム宣言受諾、終戦の詔勅の発表後の1945年8月28日から9月5日にかけて、ソ連によって軍事占領され、今日に至っている。日本政府はこれらの島々を、1855年2月7日に締結された日露和親条約で平和的に日本の領土とされたものであったとみなしている。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約において日本は、「千島列島」と「樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄」したが、日本政府は、この条約で放棄した「千島列島」に北方領土は含まれておらず、ソ連およびその後のロシアがこの島々を占拠しているのは不当であり、日本に返還されるべきであるとの立場を取っている。56年に日ソ共同宣言で日本とソ連は国交正常化したが、北方領土問題は直ちに解決せず、その後の冷戦の過程で両者の立場の隔たりはさらに大きくなっていった。
ゴルバチョフ政権の誕生後、ソ連は領土問題について柔軟な態度を示すようになったが、重要な変化は、ソ連解体の後に起こった。93年10月エリツィン大統領と細川護煕首相が合意した「東京宣言」では、両首脳は「両国間で合意の上作成された諸文書」と「法と正義の原則」を基礎に平和条約締結に向けての領土交渉を継続することに合意した。その後、97年11月に、エリツィン大統領と橋本龍太郎首相がクラスノヤルスクで会談し、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことで合意した。しかし、具体的な領土問題の解決策については、1998年に日本が、それまでの全面的返還を求める態度から国境線画定をまず行おうとの提案を行ったといわれるが、ロシア側の受け入れるところとならなかった。結局、2000年になっても問題は解決しなかった。その後、プーチン政権になって、ロシアは、日ソ共同宣言の有効性に言及するようになり、これに応えて日本国内では、二島返還先行論が検討されたが、反対の議論も強く、またこの問題にからんで田中真紀子外相と外務官僚の対立や鈴木宗男議員の外務省への関与の問題などが起こり、進展しなかった。その後、ロシアは態度を軟化させることなく、05年のプーチン大統領の訪日でも領土問題では成果は生まれなかった。