1956年10月19日締結された日本とソ連との間の共同宣言。ソ連は、51年のサンフランシスコ平和条約に調印することを拒否したため、日ソ間には国交が存在しなかった。55年6月に、国交正常化のための交渉が日ソ間で開始されたが、択捉(えとろふ)および国後(くなしり)について合意ができなかった。その結果、共同宣言で国交を回復することのみに合意し、領土問題を含め平和条約の締結は、外交関係樹立後に行うことになった。共同宣言では、平和条約が締結された後に歯舞(はぼまい)諸島と色丹(しこたん)を日本に引き渡すと規定していた。しかし、60年、新しい日米安全保障条約が締結されると、ソ連は、日本から全外国の軍隊の撤退という条件が加わってのみ、平和条約締結後の歯舞・色丹の引き渡しが行われるとの通告を行った。以後、ソ連は、日ソ間に領土問題は存在しないとの立場を取るようになっていった(73年、田中角栄首相が訪ソした際、日ソ両国の間の「未解決の問題」の中に領土問題が入るとの趣旨の発言をブレジネフ書記長がしたとされるが、それ以後も、ソ連は「解決ずみ」との立場を取ってきた)。
冷戦後、ロシアは領土問題の存在は認めるようになったが、「東京宣言」やクラスノヤルスクの合意にもかかわらず、進展はなかった。日ソ共同宣言については、2000年9月の訪日に際してプーチン大統領が「1956年宣言は有効である」との発言を行い、日本側に歯舞・色丹の先行返還を期待する考え方が生まれた。それまで、56年宣言の有効性を明示的に語らなかったロシアが、この有効性を語ったことから、ここを突破口に交渉を進めようとの考えが生まれたのである。しかし、この二島先行返還論に対しては、この方向を追求すると二島のみの返還ですべてが終わってしまいかねないとの危険が指摘された。2001年3月にイルクーツクで行われた日ロ首脳会談では、1956年宣言が「基本的な法的文書」であることが確認され、「その上で」四島の帰属に関する問題を解決し、平和条約の締結を目指すとされた。ただし、その後2005年のプーチン大統領の訪日でも、領土問題に進展はみられなかった。