冷戦後の日米関係は、日米包括協議における自動車・自動車部品交渉にみられたように経済面での対立が前面に出ていた。さらに冷戦終結によってソ連の脅威がなくなり、日米安全保障条約の必要性についての疑問も提示されるようになっていた。このような中、経済対立が安全保障面に悪影響を及ぼし日米安全保障関係が揺らぐことを防ぐため、日米安全保障関係を「再定義」することが有用だとの考えが、ジョセフ・ナイ国防次官補など日米の防衛関係者の間でもたれるようになったのである。1995年の春から事務レベルでの折衝が進められ、95年11月に予定されていたクリントン大統領の訪日に合わせて発表することが予定された。しかし、アメリカの国内事情から、大統領訪日が延期され、実際に「日米安全保障共同宣言」という形で公表されたのは、96年の4月17日となった。この共同宣言が特に強調したことは、日米安保関係が、「21世紀に向けてアジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎であり続けること」であった。とりわけ、アメリカのアジアにおける軍事プレゼンスが「アジア太平洋地域の平和と安定の維持のために不可欠」であることが確認され、クリントン大統領も、アメリカがこの地域に「10万人」の兵力を維持することを約束した。さらに朝鮮半島などでの有事に備えるため、「日本周辺地域において発生し得る事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合における日米間の協力に関する研究」の必要性が合意され、これをベースに「日米防衛協力のための指針」が97年に改定された。