2007年9月26日に成立。安倍晋三首相は同年7月の参議院選挙で与党自民党が過半数を大きく割る結果を受けて、8月末に内閣を改造したが、体調がすぐれず、辞意を表明した。自民党の後継総裁選挙には福田康夫と麻生太郎とが立候補したが、麻生が197票であったのに対して、福田が330票を獲得して総裁に就任した。首相指名では、衆議院が福田康夫を、参議院は民主党党首の小沢一郎を指名したが、憲法の規定に従って福田が内閣総理大臣に指名された。しかし、参議院では合計すれば野党が過半数である状況を受けて、10月30日と11月2日の2回にわたり福田首相は小沢党首と会談を持ち、両者の間で、自民党と民主党の大連立政権をつくることが合意された。しかし、民主党内部の強い反対でこの合意は破棄された。これ以後、民主党は自民党との対決姿勢を強めることとなった。
その結果、08年1月11日には、参議院で民主党などが否決した、インド洋における海上自衛隊によるアメリカ軍などへの給油法案が衆議院で与党の3分の2以上の多数をもって議決された。3月7日には政府は日銀の新総裁候補として武藤敏郎副総裁(元大蔵事務次官)を野党に提示したが、3月17日に野党が過半数を握る参議院はこれを否決した。また、揮発油税などの暫定税率を定めた租税特別措置法に関しては、1月30日に衆参両院議長のあっせんで「年度内に一定の結論を得る」とされたが、民主党など野党の時間稼ぎの結果、法案は年度内には成立せず、4月1日からは暫定税率が撤廃されるという異例の事態となったが、これも4月30日に与党が衆議院で3分の2の多数で議決することでもとに復した。そして、通常国会の最終段階では、民主党などの野党は参議院で福田内閣問責決議案を賛成多数で可決した。現行憲法下では初めてのことである。
こうした厳しい与野党関係中で福田首相は、消費者行政の一元化や道路特定財源の一般化などを目指した。後者については、5月13日に道路特定財源制度を08年度から10年間延長する道路財政特別措置法を衆議院で与党の3分の2の多数によって議決したことを受けて、政府は09年度からの道路特定財源の一般財源化を閣議決定した。そして、7月7日から9日の北海道・洞爺湖サミットでは議長国としての務めを果たした後、8月1日に内閣を改造し、自民党幹事長には麻生太郎を指名した。福田内閣は成立の当初は高い支持率を受けて発足したが、与野党伯仲状況においてはなかなか指導力を発揮できないこともあり、また、08年4月から発足した後期高齢者医療制度が後期高齢者に対して冷たいというイメージなどが強く働き、内閣に対する支持率は急速に低下した。衆議院の任期切れを控え、支持率の低い首相では総選挙に勝てないという公明党などの意思もあり、福田首相は9月1日に記者会見をして、退陣を表明した。そして、麻生太郎が自民党総裁を受けて9月24日に内閣総辞職した。
福田首相は1936年7月16日に群馬県高崎市で生まれた。父は福田赳夫元首相(1976~78年在任)である。早稲田大学政経学部を卒業し、丸善石油に勤務したが、福田赳夫内閣の発足に際して父親の秘書を務めたが、父親の引退にともない90年の総選挙に出馬して、当選した。95年8月の村山改造内閣で外務政務次官を務め、2000年10月に森内閣の官房長官に就任した。小泉内閣でも官房長官を引き受けたが、04年に辞任した。小泉首相が退陣した06年の総裁選挙でも出馬がうわさされたが、同じ派閥から安倍晋三が出馬したために断念した。