1889年(明22)2月11日に発布され、翌年の第1回帝国議会開会日(11月29日)から施行された東洋初の憲法典。正式の名称は「大日本帝国憲法」であるが、一般に帝国憲法という公的略称で呼ばれ、日本国憲法の成立に伴って明治憲法といわれるようになった。伊藤博文の主導の下、プロイセンの立憲君主制をモデルとしつつ、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎の3人が起草した原案を天皇の諮問機関である枢密院で審議し、君定憲法(欽定憲法)として制定された。「天皇」に始まり、「臣民権利義務」「帝国議会」「国務大臣及枢密顧問」「司法」「会計」を経て「補則」で終わる全7章76カ条からなるが、立憲主義の要をなす大臣責任制には例外が設けられた(皇室事務と統帥権の独立)。「皇室の家法」として勅定された皇室典範は、憲法と同等以上の権威をもつと考えられ、明治憲法は最高法規としての効力をもちえなかった。議会の予算議定権には重大な制約があり(67条・71条)、憲法と同時に制定された議院法も議会(特に衆議院)の自律的運営の障害となった。そのため、議会の地位は著しく弱く、明治憲法の採用した立憲制は「外見的立憲主義」にすぎないといわれる。