日本の植民地支配からの解放(1945年)後、朝鮮半島内部における右派と左派との対立を米ソの分割占領と米ソ冷戦が増幅することで、48年に韓国と北朝鮮がそれぞれ建国され、南北分断体制が生まれた。そうした南北分断体制を克服し朝鮮半島の武力統一を目指して、1950年6月25日、ソ連のスターリンと中国の毛沢東の承認を得た北朝鮮の金日成(キム・イルソン)が、韓国に対して起こした戦争である。開戦直後、韓国軍は退却を余儀なくされたが、国連安全保障理事会決議によってアメリカを中心とする国連軍が結成されることで戦局は反転し、北朝鮮軍は敗走した。しかし、50年10月、中国が人民志願軍を投入して北朝鮮を支援したため、国連軍、韓国軍は敗走を余儀なくされた。その後、ほぼ2年近く戦線は北緯38度線付近で一進一退が続いた。民族内部の内戦は国際戦争へとエスカレートしたが、朝鮮戦争は「第三次世界大戦」にはつながらなかった。ソ連のスターリン書記長は限定的かつ非公式的な「参戦」にとどめ、米ソが直接に戦闘する可能性を排除し、アメリカのトルーマン大統領も原爆投下を主張したマッカーサー国連軍司令官を更迭し、戦争を朝鮮半島の「局地戦」にとどめたからである。53年7月27日、国連軍、朝鮮人民軍、中国人民志願軍という3者の間で、戦争終了を意味する平和協定ではなく、戦争の休戦を意味する停戦協定を締結したが、韓国は署名しなかった。朝鮮戦争の結果、南北朝鮮における国内の独裁体制はより一層堅固になった。韓国側の死者は軍民合わせて130万人、北朝鮮側のそれは250万人で、南北双方に生き別れになった離散家族が1000万人にのぼった。日本にとっては、朝鮮戦争に起因した戦争特需によって戦後復興の起爆剤になるとともに、米軍の一翼を担う形で機雷除去、輸送などの後方支援の役割を果たすことで再軍備に拍車をかけることになった。日韓は国交もなく同盟関係も締結されなかったが、アメリカを中心とした反共自由主義陣営の一員として関係構築を促進する必要から日韓国交正常化交渉を開始。65年に日韓基本条約が締結された。その後、南北の力関係などは大きく変容し、南北首脳会談も開催されるなどしたが、南北分断体制、停戦体制は依然として持続している。