第2代大統領のスハルト時代(1968~98年)は、インドネシア共産党に対抗して設立された翼賛組織ゴルカル(職能集団)が万年与党で、1998年5月のスハルト政権の崩壊後に、ようやく政党結成の自由化が認められた。99年の総選挙では、スカルノ初代大統領の流れをくむインドネシア民主党の党首を解任されたスカルノの長女メガワティ・スカルノプトリが、党を割って闘争民主党を結成し、第1党になった。2001年にメガワティは大統領に就任したが、04年の総選挙で闘争民主党は第2党に転落。同年の大統領選挙でも民主主義者党のスシロ・バンバン・ユドヨノ前国防治安調整相に敗れた。ジャカルタ特別州知事だったジョコ・ウィドドを大統領候補に戦った14年総選挙で、闘争民主党は第1党に復帰したが、得票率は2割に満たなかった。同年の大統領選挙で、元戦略予備軍司令官プラボウォ・スビヤント候補を支持した旧ゴルカルを基盤とするゴルカル党が第2党になり、プラボウォ候補が率いるグリンドラ党も第3党に躍進。民主主義者党は第4党に転落した。ジョコ政権はアブドゥルラフマン・ワヒド元大統領が結成したイスラム政党の国民覚醒党などと与党連合を組んだが、議会は野党が多数を占めることになった。