旧ネパール共産党毛沢東主義派(CPN-M)。1990年の民主化運動の中でネパール共産党統一マルクス・レーニン主義(CPN-UML)とたもとを分かち、95年に結成された組織。2009年1月に分裂状態にあった分派と合同し、現在では統一ネパール共産党毛沢東主義派(UCPN-M)を名乗る。CPN-Mは、1996年から「ナショナリズム・人民民主主義・民生向上」の三目標を掲げ武装闘争を始めた。活動拠点は開発の遅れた中西部地区から始まり、2001年には武装闘争は全国に拡大、全75県のうち68県で活動しており、22県で「人民政府」を運営し、県の行政、徴税、司法権を行使していると公言してきた。CPN-Mが指導する「人民解放軍」の戦闘員数は約3万人とされ、女性の比率も高い。03年1月、CPN-Mは再度停戦と和平交渉を呼びかけたが、「王政廃止・共和制実現」「制憲議会選挙」を求めるCPN-Mと、国王の擁立した当時のタパ政権との交渉はまとまるはずもなく、同年8月戦闘が再開された。戦闘の犠牲者は1996年以来1万4000人を超すとされている。2004年に入りCPN-Mは首都カトマンズへの攻撃を開始した。05年、国王専制体制が強化されるにつれ、CPN-Mは武装闘争を強めるとともに、反国王・民主化闘争で七党連合の政党勢力との共闘を進め、06年の民主化闘争で大きな役割を果たした。党の指導はプラチャンダ(本名プシュパ・カマル・ダハル)議長、インドの左翼指導者とも親交のあるバブラム・バッタライと軍事部門を指揮するモハン・バイディヤの2人の副議長からなる三頭体制であった。CPN-Mは08年4月の制憲議会選挙で第一党となり、8月プラチャンダが首相に就任した。陸軍参謀長の罷免をめぐるCPN-UMLやネパール会議派との対立から、プラチャンダは09年5月首相を辞任し、UCPN-Mは野党に回ったが、その後11年2月成立のカナール(CPN-UML)政権、同8月成立のバッタライ(UCPN-M)政権に参加した。バッタライ政権のもとで決定された人民解放軍の国軍への吸収措置について、バイディヤ副議長らの急進派は不満を抱いた(→「ネパール連邦民主共和国」)。党内でのプラチャンダの蓄財・汚職批判、人民解放軍基地での内部対立に伴う、政府による国軍の派遣などを契機に、バイディヤらは12年6月19日にUCPN-Mを離脱し、ふたたび旧来のCPN-Mを名乗る党を結成した。新たなCPN-Mには中央委員149人中45人が参加したとされる。いっぽう、9月6日、アメリカ政府は03年以来のUCPN-M(旧CPN-M)に対するテロ組織指定を解除した。