2009年4月、ペルー最高裁判所特別刑事法廷は、元大統領アルベルト・フジモリに25年の禁固刑を言い渡した。1991年11月のバリオス・アルトス事件(住民15人の虐殺)と92年7月のカントゥータ事件(学生9人、教授1人の拉致・虐殺)、およびスペイン人記者ら2人の誘拐事件にかかわる人権侵害行為に対するものである。その後、2009年9月には野党政治家等への収賄や電話盗聴の罪で6年の刑が言い渡された。ペルーの法律では刑期は加算されないうえ、本国への強制送還までチリで拘束されていた期間が差し引かれるため、刑期は32年2月10日(年齢93歳)まで。弁護側は最高裁に2審(再審)を求めたが、最高裁は10年1月、特別刑事法廷(1審)の判決を全員一致で確認し、刑が確定した。フジモリは1990年に世界初の日系人大統領となったが、次第に強権性を強め、92年には大統領でありながら自らクーデターを実行し、憲法を停止した。93年には行政権を拡大する一方で、大統領の3選を禁止した新憲法を制定した。しかし、2000年の大統領選挙では、初当選は旧憲法下のものであり、新憲法下では2選目になるとして出馬した。決選投票では対立候補のトレドが立候補を取りやめたため、当選となった。しかし、直後にモンテシーノス大統領顧問による野党議員買収問題や大統領自身の不正蓄財などが露見して反政府運動が高まり、同年11月に外遊中に立ち寄った日本から本国に辞表を提出した。これに対しペルー議会は大統領を罷免した。フジモリは日本国籍を有していることが判明してそのまま滞在した。ペルー政府の身柄引き渡し要求に対し、日本政府は日本人であるという理由で拒否を続けたが、06年1月、突然チャーター機でチリに出国した。チリからペルーに入国し大統領選挙に出馬するためであったが、チリ当局に拘束された。同年9月、チリ最高裁が本国送還を認めたため、ペルーに帰国したところで逮捕され、裁判にかけられた。なお、チリで拘束中の07年7月に行われた日本の参議院選挙比例区に国民新党から出馬し落選している。