旧ユーゴスラビア連邦は冷戦期、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれた複雑な多民族国家であり、クロアチア人チトーは、それをうまく統合していた。しかし冷戦の終焉(しゅうえん)後、ユーゴスラビアでは、1990年12月にセルビア大統領に選ばれたミロシェビッチが、91年に独立宣言を行ったクロアチアとスロベニアの独立を阻止しようとして連邦軍を派遣し、ボスニア内戦となった。ボスニア・ヘルツェゴビナは92年5月独立宣言を行ったが、ミロシェビッチはこれを認めず、戦闘が長引き、結局94年4月のNATO(北大西洋条約機構)による空爆と、95年11月のデイトン合意を経て、独立を承認する形で収束した。
他方で、これまでもくすぶっていたアルバニア人の民族問題がセルビアの国家形成の問題とぶつかり、コソボ紛争へと発展した。これに対し99年3月24日、アメリカのクリントン大統領(当時)によりNATOの空爆がセルビア地域に対して行われた。NATO空爆を契機に、ミロシェビッチ体制の基盤が崩れ、2000年9月の大統領選挙で、ミロシェビッチはコシュトゥニツァと接戦のうえ敗れ、コシュトゥニツァが新大統領となった。ミロシェビッチはハーグの国際戦犯法廷に引き渡され、民主党のジンジッチが首相になったのもつかの間、ジンジッチは03年3月に暗殺され、ミロシェビッチは、06年3月、ハーグの獄中で死亡した。
セルビア・モンテネグロは2012年のEU(欧州連合)加盟を目標として南東欧安定化協定を基礎に政治的・経済的安定をめざしていたが、06年5月の住民投票で、モンテネグロは55%以上の賛成を得て独立を達成した。