フランス新大統領に2007年5月16日に就任したニコラ・サルコジ大統領は、フランソワ・フィヨン元教育相を新首相に任命、さらに社会党員で「国境なき医師団」を創設したベルナール・クシュネル元人道援助担当相を外相に起用し、アラン・ジュペ元首相を環境相に据える新内閣人事を行って、サルコジ体制を発足させた。15人の閣僚のうちペクレス高等教育相など7人の女性を任命、サルコジ政権の新鮮さをアピールすることも忘れない。選挙公約である「大きな政府」からの脱却と週35時間労働制の見直しなど「100日改革」の断行を目標に掲げたサルコジ政権は、週35時間労働制の廃止や消費税の引き上げ、公務員年金の優遇措置の見直しなど、国民の痛みをともなう改革を断行できるかに関心が集まったが、強力な社会勢力である労働界は頑強に抵抗し、公約を達成できずにいる。また05年秋に起こった移民2世を中心とした若者による暴動に際し、「社会のくず」と呼んだ内相当時の強硬姿勢は変わらず、10年には内外の批判を意に介しないでロマ人キャンプの強制撤去や彼らの国外追放を断行し、移民問題に神経をとがらせる国内世論の鎮静化にある程度の成功を収めた。外交・安全保障政策では、シラク政権の基本路線を継承したが、イラク戦争に反対してアメリカとの関係を悪化させたシラクの負の遺産の解消に努め、対米関係の改善を果たした。05年の国民投票で批准が拒否されたEU憲法(欧州憲法)条約については、内容の簡素化を提唱し、EU(欧州連合)内での合意を目指して07年6月22日に開かれたEU首脳会議で、ドイツのメルケル首相と連携してEUの基本条約であるニース条約の改正という形で合意を達成することに成功した。同年12月にはリスボンで改正条約署名式が行われ、EUのさらなる統合に向けて指導力を発揮している。このようなドイツとの緊密な関係を指して「メルコジ」路線と呼ぶ向きもあるほどである。他方、08年のリーマン・ショックに端を発したギリシャの政府債務危機に際しては、11年秋から12年春にかけて、ドイツと連携して欧州金融安定化基金(EFSF)を軸とするギリシャ救済作戦を展開し、ユーロ圏の安定に尽力した。また、08年3月のチベット暴動に対する中国政府の弾圧に抗議して北京オリンピックのボイコットに言及したり、同年12月6日にはEU議長国としてダライ・ラマ14世と面会し、中国政府の反発を引き起こすなど、独自の人権外交を展開した。EU議長国としては08年8月に発生した南オセチア紛争とアブハジア紛争に際してロシアとグルジアとの調停を行い、紛争停止に貢献した。
他方、公約であった構造改革の目玉とされた憲法改正法案を審議する上下両院合同会議が08年7月21日に開かれ、わずか1票差で可決された。ドゴール主義者が反対したための僅差となったが、これによりドゴール大統領が構築した第五共和制の骨格の一部が修正され、5年間の大統領任期が連続2期10年までに変更されることとなった。しかし、就任後、07年10月18日には公務員の年金制度改革に反対する大規模なストとデモに見舞われ、また10年3月の地方議会選挙で移民排斥を主張する右翼の国民戦線が得票数を大幅に伸ばし、さらにドビルパン元首相が6月に中道右派の「共和国連帯」を旗揚げして与党「共和国連合」が分裂するなど、指導力の低下を印象づけた。12年4~5月の大統領選挙では最大野党の社会党候補になったフランソワ・オランドに敗れ、エリゼ宮を去ることとなった。