アフリカ大陸最大の面積を有するスーダンは、1956年にイギリスから独立したが、今日までほとんどの期間、北部のイスラム教アラブ系住民地域が優遇されてきた結果、キリスト教およびアニミズムを信じる南部の黒人との間で内戦が絶えなかった。89年、イスラム原理主義に立脚するバシル政権が発足すると、すでに南部を広く支配していたスーダン人民解放軍(SPLA)に対する軍事対決姿勢が鮮明となった。しかし2001年のアメリカ同時多発テロ以降、バシル政権は急速にアメリカに接近。22年にわたる内戦の終結に向けた展望が高まり、05年1月には、政府とSPLAが包括的和平協定に調印した。しかし03年、西部ダルフール地方で、イスラム教非アラブ系住民からなるスーダン解放軍(SLA)および正義と平等運動(JEM)と名乗る反政府武装組織が蜂起。政府軍は空爆やアラブ系民兵ジャンジャウィードの投入を通じた焦土作戦により対応した。その結果、7万人以上の住民が民兵によって虐殺され、200万人が難民化し、その一部は隣国チャドに流入した。05年3月、国連安保理は住民虐殺責任者を国際刑事裁判所(ICC)に訴追する決議案を採択。同年5月にはICCがスーダン政府閣僚とジャンジャウィードのリーダーに逮捕状を出した。08年7月にはバシル自身が人道に対する罪などでICCによって訴追された。ICCは09年3月、逮捕状を出し、同国政府に身柄引き渡しを求めたが、スーダン政府はICCの訴追権を認めておらず、拒否された。さらにアラブ連盟とAUもICCの決定を拒否。ダルフール紛争は、スーダンの国内問題ではなく、国境を接するチャドや中央アフリカ共和国の政情不安とも、エスニック集団別の様々なネットワーク間の確執とも結びついている。08年3月には、難民保護のために3000人規模の欧州連合軍(EUFOR)がスーダンとチャドの両国に展開された。10年4月には、05年の和平合意に基づく初の大統領選挙でバシルが再選されたが、南部での得票率は10%であった。11年1月南部の分離独立を問う住民投票が実施され、圧倒的多数で分離独立が選択された。しかし新たな国境となる南北の境界線は不明確で、今後の交渉次第では政情不安の再発を生みかねない。