バキエフ政権の崩壊をもたらした民衆暴動とその後の騒乱。バキエフの親族支配や縁故主義、また経済の立て直しのめどが一向に立たないことから、2010年3月ごろより政権を批判する運動が国内各地に拡大。4月7日、首都ビシケクで数千人規模の集会が開かれ、大統領府を包囲。05年の政変が無血であったのとは対照的に、政府側の発砲を含む銃撃戦によって85人が死亡した。バキエフはキルギス南部に逃亡し、代わってオトゥンバエワ元外相を首班とする臨時政府が設立された。その後もバキエフは逃亡先で自身を「合法的大統領」であると主張し、内戦に陥る可能性もあったが、アメリカ、ロシア、カザフスタンなどの調停によってバキエフは大統領を辞任、ベラルーシに亡命した(4月15日)。しかし、その後もバキエフ派によると見られる暴動が南部で頻発し、オシュなど複数の都市ではキルギス系とウズベク系両住民による衝突が発生(6月10~14日)。この時の死者は約300~900人と見積もられている。6月27日の国民投票により、臨時政府ならびに議院内閣制を軸とする新憲法案が承認された。(→「キルギスでの議会制民主主義」)