マルチチュード(多数者)は近年では、ネグリ(Antonio Negri 1933~)とハート(Michael Hardt 1960~)によって肯定的社会勢力と見なされているが(『〈帝国〉』『マルチチュード』など)、それは一面的である。多数者は民衆というよりも、理性なき群衆であり、ネグリが依拠するスピノザ(Baruch de Spinoza 1632~77)では、多数者は暴力的に盲動する群衆、または大衆として恐怖される存在であった。たしかに群衆は歴史を動かすが、革命群衆にもなれば、反動群衆にもなり、政治的悲劇の制作者にして被害者である。
思想の課題は、消極的群衆になりがちな民衆を、理性的に判断する能力を持つ解放群衆に変換することである。多数者は群衆的であるかぎり、帝国主義の確実な賛同者であり、担い手である。それは批判の対象でしかない。いまこの種の群衆的多数者ばかりが目につくが、群衆と帝国との共犯関係をえぐり出すことのほうが一層重要である。多数だからよいということはありえない。