広義には、共同的・相互的な形でこそ成立する主観・主体のあり方を指す。この意味では例えば、ヘーゲルが見いだした「我々である我、我である我々」という主体のあり方が一つの典型ともなる。しかしそれを術語として限定的な意味で用いたのは、フッサールである。フッサールは、一方では素朴な実在論を退け、客観的世界の成り立ちを意識の志向性により構成されるものとしたが、他方では、構成的な意識のあり方、つまり「超越論的主観性」が、孤立した主観性として単独に機能するのではなく、超越論的間主観性(transzendentale Intersubjektivitt 独)として複数の主観の共同性において成立すると考えた。
客観的世界の成り立ちを間主観性のうちに見いだすフッサールの思考は、他者経験をめぐる困難を残しつつも、後の現象学的思考や社会思想に大きな影響を与えた。例えばそれは、間主観性を間身体性として捉え直したメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty 1908~61)の思考や、コミュニケーション的合理性をめぐるハーバーマスの思考などにも批判的に受容されている。しかし他方で、間主観性はいわばそこに回収されえない他者を締め出すことで成立しているのではないかといった疑念もくり返し投げかけられている。