アリストテレス(Aristotels BC384~322)は存在するものすべてを10の範疇(カテゴリー)に分類し、その一つを「実体」(ウーシア ousia 希)と呼んだ。実体だけが自存しうるものであって、その他の範疇に属するものは実体に依存することなしには存在しえない。アリストテレスによる実体の定義は「主語となって述語とならない」ものであるが、この定義が当てはまるのは第一実体すなわち個物だけである。「人間」や「動物」といった類種の概念も命題において主語となりうるが、これらは派生的な意味での実体(第二実体)と呼ばれる。
自存しうるものを実体とする伝統は、実体-属性の存在論とともに、中世スコラ哲学を経て、近世哲学まで持ち越される。例えば、人間は「白い」や「二足歩行する」といった属性(attribute)をもつが、こうした属性はすべて何かの属性であると考えられ、属性の背後には自存する何か、すなわち実体の存在が要請されたのであった。デカルト(Ren Descartes 1596~1650)において、厳密な意味で自存しうるのは神だけであるが、思惟と延長という二つの基本属性のあいだには、一方が存在するために他方を必要としないという実在的区別が成り立つ。かくて、思惟と延長すなわち精神と物体は、存在するのに神の協力以外を必要としない、種類の異なる二つの実体であるとする心身二元論が成立することになる。
この考え方は心身問題の基本的枠組みとして20世紀まで大きな影響力をもち続けたが、すでに近世哲学において多くの批判を生じさせている。スピノザ(Baruch Spinoza 1632~77)はデカルトの実体論を徹底させ、ただ神のみを実体として認め、この世界における諸事物はすべて神の様態にすぎないと考える。ロック(John Locke 1632~1704)は経験論の立場から合理主義を批判したとはいえ、その批判はデカルトの実体論には及んでいない。しかし、実体から諸属性を取り去ったならば、感覚によって捉えられうるものは何も残されない。バークリ(George Berkeley 1685~1753)は経験論を徹底させることで物体的実体の存在を否定し、ヒューム(David Hume 1711~76)はこれをさらに徹底させることで心的実体の存在をも否定する。これに対して、カント(Immanuel Kant 1724~1804)は、変化の経験には、その背後に不変のものが前提とされていなければならないとし、この不変のものを実体と呼ぶ。しかし、カントが復権させた実体は変化の経験を成立させるための認識論的装置にすぎず、そこには実体が伝統的に担っていたような存在論的な含意はもはやない。