アリストテレス(Aristotels BC384~322)からスコラ哲学に連なる哲学的伝統においては、アプリオリとアポステオリは、それぞれ「より先なること」と「より後なること」を意味し、認識順序や存在秩序などにおける先後関係を表現するのに用いられた。現在では、アプリオリとアポステオリは、もっぱら二種類の命題(判断)を区別するのに用いられるが、こうした使用法はカント(Immanuel Kant 1724~1804)に由来する。カントは、経験に先立つ判断、したがって、その真理性が経験に左右されない判断をアプリオリな判断と呼び、感覚経験に基づく判断をアポステリオリな判断と呼ぶ。
カントはまた分析判断と総合判断とを区別する。分析判断とは「妻帯者は結婚している」のように主語の概念分析だけから得られるような命題であり、なんら認識の拡張を含まない。これに対して、総合判断とは「太陽系の惑星の数は8である」のように主語の概念分析だけからは得られない命題であり、主語概念の認識にさらなる認識を付加するものである。カントによれば、数学的命題とは、その真理性が経験に左右されないにもかかわらず、認識の拡張を含むものであり、アプリオリな総合判断とされる。
これに対して、20世紀に入って論理実証主義者たちが異議を唱えた。彼らによれば、アプリオリな命題はすべて分析的命題であり、言語的規約のゆえに真である論理学と数学の諸命題だけがそこに含まれる。しかし、クワイン(Willard Van Orman Quine 1908~2000)によれば、そもそもアプリオリな命題とアポステリオリな命題という区別が成り立たない。例えば、ある物理学の命題が経験によって反証されたとき、その命題だけが問題視されているのではない。その背景にある諸命題を含む理論全体が問題視されているのであり、論理学や数学の諸命題といえども安全地帯に居るわけではない。クワインに従えば、経験による反証を免れたアプリオリな命題など存在しないのである。