政治哲学の目的は、我々に対して強制力を有する諸制度、とりわけ国家という制度の適切な役割とは何であるのかを考察することにある。ロック(John Locke 1632~1704)、ルソー、そしてカントに端を発する政治思想であるリベラリズムは、個人の自由と権利を保証することに第一の重要性を認めている点に特徴がある。現代の代表的リベラルであるロールズ(John Rawls 1921~2002)は、「市民的自由」(良心、言論、結社、人身の自由)と「政治的自由」(参政権等)が何にもまして保護されるべきことを要求している。また社会制度を評価するにあたって、善(good)よりも正(right)や正義(justice)に優先権を付与すべきであることを主張し、政府は全ての市民に対して単一の善の構想を押しつけるべきではないと論じている。自律的で合理的な選択をできる個人像が、リベラリズムの土台となっている。
歴史的には、リベラリズムは宗教改革後の寛容の承認と封建制度崩壊後の資本主義の進展と軌を一にして発展し、それらを思想的に正当化する役目も果たしてきた(善についての多元主義と市場経済の擁護)。リベラリズムは、自律的個人が自ら肯定する様々な善き生についての構想の追求だけでなく、市場での自己利益の追求にも高い地位を与えているが、この後者の面を特に強調した立場が、ノージック(Robert Nozick 1938~2002)らを代表的論者とするリバタリアニズム(libertarianism)である。
「個人の自由」へのコミットメントを極大化した立場がリバタリアニズムだとすれば、アリストテレス(Aristotels BC384~322)の思想を一つの源泉としながら、この個人の自由を可能とする社会的・文化的な前提条件についての再検討を促したのが、マッキンタイア(Alasdair Chalmers MacIntyre 1929~)、テイラー(Charles Margrave Taylor 1931~)、サンデル(Michael J. Sandel 1953~)らを代表的論者とするコミュニタリアニズムである。合理的な仕方で選択を行うための我々の能力は、生得的なものではなく、我々が生まれ育った共同体の文化の中で培われたものである。共同体の諸形態(家族、言語共同体)は自由な選択を行うための我々の能力の育成を助け、有意義な選択肢を提供するのであって、リベラルのように共同体よりも個人を優先させ、無制約な自由の行使を個人に認めることは自己の土台となっている共同体を浸食することになる、とコミュニタリアンは警告している(リベラル/コミュニタリアン論争)。私的領域において単に自己利益を追求するのみならず、公共的な領域である共同体において共通善(common good)を促進する活動に積極的に参加することは、人間の善き生における基礎的でかけがいのない構成要素であるとコミュニタリアンは考えている。