即自(an sich)は、そもそも自体的であること(kath'hauto 希 ; per se 羅)を意味する。アリストテレスにおいては、自体性は付帯性に対立するものとされる。カント(Immanuel Kant 1724~1804)において、物自体(Ding an sich 独)は、われわれに対してあらわれるかぎりの「現象」と対比され、認識主観とのあらゆる関係を排除して独立している。そういった意味において、自体的なものは他から解き放たれており、つまり絶対的(absolut)であるといえよう。
ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770~1831)は、このようなカントの枠組みを批判的に継承しつつ、これを弁証法的運動のうちでとらえなおす。絶対的なものは、アリストテレス的な可能態(dynamis)から現実態(energeia)へといたる流動的な過程において把握されるのである。絶対的であるようにみえる即自は、関係を捨象した潜在的・抽象的段階であるにすぎず、自己への否定的関係としての対自(fr sich)へと移行せざるをえない。さらに即自と対自の対立が克服され、両者を契機として保存する総体としての即かつ対自(an und fr sich)の段階へと至ることになるとされる。
またサルトル(Jean-Paul Sartre 1905~80)によれば、それ自体として肯定的に存在する事物のあり方が即自存在(tre en soi)であり、それに対して、この即自存在へと否定的にかかわり、自分自身とは区別された対象として定立する意識的存在が、対自存在(tre pour soi)として規定される。対自存在は即自存在と否定的にかかわるばかりでなく、自分自身から身を引き離すことになる。このような対自存在の自己否定と脱自の構造において、人間の自由が基礎づけることになるのである。