言語的テキストを理解するにあたって、とりわけ時代、文化的にわれわれから隔てられた文献の意味を明らかにするには、それを解釈することが必要となる。解釈学は、もともと聖書や、古典文献における解釈技術を意味するものであった。この「解釈学」という語は、「説明」「解釈」といった意味をもつ「ヘルメーネイアー(hermnei 希)」に由来するが、この語はさらに神々と人間を媒介する役割をもつ「ヘルメース神」と由来を等しくするものとされる。解釈学は19世紀に至って、シュライアーマハー(Friedrich Schleiermacher 1768~1834)や古典文献学者ベック(August Boeckh 1785~1867)らによって、学問的方法へと高められた。ディルタイ(Wilhelm Dilthey 1833~1911)は、「解釈(Auslegung oder Interpretation 独)」を、「持続的に固定されている生の諸表出を、技術的に理解すること」と規定している。こうして解釈学の対象は、たんに言語的テクストにとどまるものではなく、「生」の表出としての客観精神である文化的形成物の全領域にまで及ぶことになる。「生の哲学」を構想したディルタイにあっては、「自然科学」に対置されて歴史的社会的現実を扱う「精神科学(Geisteswissenschaften 独)」の方法論的基礎として位置づけられたことによって、「解釈」は哲学の中心的問題としての地位を占めるようになった。ハイデガー(Martin Heidegger 1889~1976)は、ディルタイの解釈学を継承するとともに、フッサール(Edmund Husserl 1859~1938)の現象学の影響のもとに、「解釈学的現象学(現象学的解釈学)」を提示している。ハイデガーは「現存在」としての人間の存在了解をてがかりとして、現存在の解釈学としての基礎的存在論を構想した。解釈にあたっては、部分が全体から理解されなければならない一方で、逆に全体は部分から理解されなければならないという解釈学的循環(hermeneutischer Zirkel 独)が生じることになる。このような関係がある種の循環論証的なものとみなされるかぎり、解釈という営為の限界を示すものとも考えられてきたが、ハイデガーは先行的な理解と解釈の間に生じるこのような循環を、むしろ積極的に評価しようとした。解釈学の伝統は、さらにフランスのリクール(Paul Ricoeur 1913~2005)や、ドイツのガダマー(Hans-Georg Gadamer 1900~2002)、ハーバーマス(Jurgen Habermas 1929~)らによって継承されている。