状態に何らかの変化をもたらす「力」のこと。哲学思想の文脈では伝統的に、政治権力、とりわけ国家権力を意味することが多いが、より広い意味で使われることもある。
政治哲学においては、なぜ個人は国家権力に従わねばならないのか、という国家権力の正統性が問われ続けてきた。16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、宗教対立が国家権力の正統性を揺るがした。信仰の相違に基づく対立や紛争が巻き起こる中で、世俗の権力は、その正統性の根拠を宗教に求められなくなる。そこで18世紀にかけて、宗教抜きに、国家権力の正統性を説明しようとする試みが活発になる。個人の社会契約への同意から国家権力の源泉を説明しようとするホッブズ (Thomas Hobbes 1588~1679) やルソー (Jean Jacques Rousseau 1712~78) の社会契約論はその代表例である。
フランス革命を経て民主主義が確立しはじめる19世紀には、国家権力の正統性の問いに加えて、国家権力から個人の自由をいかに守るかが論じられるようになる。国家(統治)が個人の自由に介入できるのは、他者への危害を防止する場合に限るとしたミル (John Stuart Mill 1806~73) の『自由論』は、この新たな問いに答えようとした著作である。ミルは、国家権力のみならず社会の多数派が少数派を抑圧する危険性を指摘した。個人の自由を制約するという意味での権力は国家のみならず、大衆も行使しうる(ミル、トクヴィル Alexis de Tocqueville 1805~59)。このような大衆社会特有の問題は20世紀の思想課題となっていく。
20世紀には、国家や大衆などが行使するマクロな権力ではなく、これまで権力が作用しているとは考えられなかった個々人の間で働くミクロな権力にも着目する思想家が現れる。ウェーバー (Max Weber 1864~1920) は、「社会関係の中で自己の意志を貫き通す可能性」と定義し、個人による他者の支配について論じた。アルチュセール (Louis Althusser 1918~90) は、家族、学校、マスメディアなど、社会の様々な場所に「国家のイデオロギー装置」を見た。また、アルチュセールの影響を受けたフーコー (Michel Foucault 1926~84) は、権力を行使する「主体」を否定し、権力を、関係の中で作用する力と定義し直した。そして、学校や工場など社会のあらゆる場面で監視され訓練されることを通じて、人間が規律を内面化し、自ら規律に従ってふるまうようになる近代社会の有り様を論じた。これらの権力論をふまえれば、社会の隅々で働く権力を知り、それといかに付き合うかは、現代を生きる我々の大きな課題であると言えよう。