538年、金銅の仏像が百済(くだら)の聖明王によって伝えられ、それを祀(まつ)るかどうかで、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との間に抗争が起こり、蘇我氏が勝利し、仏教は豪族層に受容された。当時、仏は蕃神(あだしくにのかみ)、つまり外国の神とみなされて病気平癒や延命が祈願され、また死者・先祖の追善供養のために仏像が造られ、寺が建てられた。聖徳太子は仏教を保護し、四天王寺や法隆寺などの寺院を建立したと伝えられるように、仏教興隆につくした。奈良時代には、聖武天皇が国家を鎮護するために、東大寺を総国分寺として全国に国分寺・国分尼寺を建立するとともに、奈良に大仏を造立し、国家仏教体制を整えていった。平安時代になると、唐に留学した最澄が比叡山に延暦寺を建てて天台宗を、空海が高野山に金剛峰寺を建てて真言宗を開き、南都六宗に対抗して学問仏教を発展させ、密教を中心とする仏教の潮流を形成していった。しかし、やがて律令体制が崩壊し摂関体制へと移行するにつれて、国家仏教は貴族仏教へと変質していった。