キリシタンとは、1549年(天文18)にイエズス会の創設者の一人フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 1506~52)が日本に伝えたキリスト教、およびその信徒を指し、吉利支丹、切支丹などの字を当てる。この名称は明治初期まで用いられた。ザビエルは薩摩で伝道した後、京都で伝道の許可を得ようとしたが果たせず、周防国(山口県)の大内義隆(おおうちよしたか 1507~51)、豊後国(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん 1530~87)から布教の許可を得て、山口と府内(現・大分市)を伝道の拠点とした。ザビエル後、宣教師(伴天連)たちは領主層に接近し、ポルトガル・スペインとの交易(南蛮貿易)を仲立ちする一方で、キリスト教の保護を求めて伝道し、領主層からも宗麟をはじめ大村純忠(おおむらすみただ 1533~87)、高山右近(たかやまうこん 1552~1615)、小西行長(こにしゆきなが 1558~1600)、有馬晴信(ありまはるのぶ 1567~1612)などのキリシタン大名が現れた。また、貧民に食事を施したり、病院を建てて医療活動をしたりして、民衆の間にもキリシタンが続出していった。天下統一を進める織田信長(1534~82)は比叡山や本願寺の仏教勢力と対抗するためにキリスト教を保護し、ルイス・フロイス(Luis Frois 1532~97)やニェッキ・ソルド・オルガンティーノ(Gnecchi Soldo Organtino 1533?~1609)がその信任を得て、1576年(天正4)には京都にもキリスト教会堂(南蛮寺)が建立されている。82年(天正10)、東アジアの布教を統括するイエズス会の巡察師アレッサンドロ・バリニャーノ(Alessandro Valignano 1539~1606)は、日本を離れるに際して、キリシタン大名からローマ派遣の使節を募って同行した。これが伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンによる天正遣欧少年使節である。この遣欧使節が帰国途上にあった1587年(天正15)、信長に代わって天下を治めた豊臣秀吉(とよとみひでよし 1537?~1598)による伴天連追放令(ばてれんついほうれい)が出され、キリシタンは迫害の時代を迎える。