弥生時代の青銅祭器の一つ。中国の馬鈴の系譜を引き、直接的には朝鮮半島の無紋の小銅鐸を大型化して飾ることによって銅鐸が生まれた。本来は馬車具の一つであったが、日本列島では、弥生時代前期末頃から鳴らすカネとして用い(聞く銅鐸)、また弥生時代中期末以後にはさらに大型化して据えて使う祭器(見る銅鐸)として用いた。「聞く銅鐸」は近畿、山陰(出雲)、東部瀬戸内地方を中心として広く分布し北九州地方にも生産遺跡があるが、「見る銅鐸」は近畿・東海地方に分布と生産が集中する。銅鐸は分布域の西から徐々に使用しなくなり弥生時代後期中頃に消滅する。銅鐸の消滅と裏返しのように王墓の築造が始まることから、銅鐸は共同体の性格の強い祭りに使用したものと推定できる。また銅鐸は原則として個人の墓に納めず、山中あるいは集落の一角の地中に埋納したことも、その祭りの性格とかかわっていたであろう。