元来は歌舞伎(旧派)ではない新しい演劇という意味での呼称。自由民権思想のプロパガンダ劇として1888年に角藤定憲によって始められ、初期には壮士芝居、または書生芝居と呼ばれた。川上音二郎は、時事的な話題や日清戦争を題材にしたルポルタージュ劇で大当たりを取り、アメリカ、ヨーロッパ諸国にも巡演した。妻の川上貞奴は、1900年のパリ万国博での公演で絶賛を浴び、帰国後も引き続き舞台に立って日本女優史上最初期の代表的な存在となる。川上一座は、シェイクスピアの作品を翻案し、歌舞音曲を用いない「正劇」(純粋なせりふ劇)として上演したり、独自の劇場を建設するなど日本の演劇近代化に足跡を残した。新派は全体としては様々な方向へ分化したが、明治後期からは、「不如帰」「金色夜叉」「婦系図」等、近代小説の劇化で人気を博し、明治・大正の風俗を背景に、男女の恋愛や人情の機微をこまやかに描く独自の様式を次第に確立し、昭和に入ってからも受け継がれた。