1903年、東京音楽学校奏楽堂で上演されたグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」が、日本におけるオペラ上演の始まりである。1911年、初の本格的西洋式劇場として帝国劇場が開場すると、まもなく歌劇部が設置され、イタリア人ローシーを招聘(しょうへい)してオペラの上演が試みられた。しかし、出演者と観客双方の未成熟により十分な成果を上げるに至らず、5年後に歌劇部は解散した。その後ローシーは赤坂ローヤル館に拠(よ)ってオペラ、オペレッタの公演を行ったが、これも程なく失敗に終わる。そのころ、アメリカでトゥ・ダンスの技術を身につけたダンサー高木徳子が、当時大衆的な娯楽の中心地であった浅草でミュージカルを公演し大成功を収めた。これに刺激されて、浅草のいくつかの劇場で親しみやすいオペラやオペレッタをさらに大衆的にアレンジしたものの上演が始まると、たちまち観客の人気を集めた。これが浅草オペラである。歌劇としてのレベルには限界があり、関東大震災により一気に衰退したが、清水金太郎、原信子、田谷力三、藤原義江、石井獏など、帝劇やローヤル館での経験で実力をつけた声楽家や新劇・舞踊畑から移った才能ある人々が、後の活躍の足掛かりとなる場を得たことの意味は大きい。また、一般の観衆を西洋音楽による芝居の魅力に目覚めさせた点では、宝塚歌劇団と並んで演劇史上でも重要な位置を占めると、再評価の機運が高まっている。