歌舞伎俳優の名跡。屋号は澤瀉屋(おもだかや)。初代は名門の出ではなかったが、9代目市川團十郎の門弟として実力を発揮して地位を高め、後には一門の重要な名跡である市川段四郎を襲名した。2代目は若年から俳優としての才能と進取の気性を見せ、洋行して見聞を広めたり新しい舞踊の創作に取り組んだりした。戦後は、大看板の一人として歌舞伎を支え、ソビエト公演における「俊寛」の名演は、海外における評価にも大きな役割を果たした。2代目猿之助の長男は3代目段四郎を襲名し、その長男が3代目猿之助(1939~)、次男が4代目段四郎(1946~)である。3代目猿之助は、市川團子(いちかわだんこ)の名で舞台を踏み、若手として人気が上昇するものの、継ぐべき名跡がなかったために、2代目が50年以上名乗って愛着のある猿之助を孫に譲り、自らは市川猿翁を名乗ることとした。その襲名披露が1963年に行われたものの、猿翁と3代目段四郎が同年に相次いで死去し、3代目猿之助は若くして後ろ盾を失い、一門を率いることとなった。祖父譲りの闘志と柔軟な思考でこの困難に立ち向かい、歌舞伎に伝わる宙乗りなどのアクロバティックな芸「外連(けれん)」を積極的に取り入れて人気を博した。86年に梅原猛作「ヤマトタケル」を上演したのを皮切りに、斬新な演出や舞台機構を最大限に生かし、大胆な展開で観客をひきつける「スーパー歌舞伎」を創作。伝統の世界に新時代を画するとともに、市川笑也(いちかわえみや 1959~)、市川右近(現3代目市川右團次 1963~)、市川春猿(2017年新派に移り河合雪之丞を名乗る 1970~)など門閥外の若手を多く育てた。2010年文化功労者。1965年に女優の浜木綿子と結婚するが68年に離婚。2000年に長年活動を支えてきた女優・舞踊家の藤間紫(2009年死去)と再婚する。03年に脳梗塞で倒れて以来、舞台から遠ざかる。浜木綿子との離婚以来、澤瀉屋とは無縁だった長男の俳優、香川照之(1965~)と11年に復縁。2012年に、猿之助が2代目市川猿翁、現4代目段四郎の長男市川亀治郎(1975~)が4代目市川猿之助、香川照之が初代猿翁の弟が名乗っていた市川中車を9代目として襲名、香川の長男も5代目市川團子として舞台を踏んだ。