明治を代表する国際人、岡倉天心(1863-1913)は、文明開化の風潮の中で日本美術の復興を目指し、美術界で指導的役割を果たした。本名は覚三。1890年に東京美術学校長となるも、98年には学校内部の排斥運動に遭い、同校を辞職した。同年秋には、一緒に辞職した横山大観(1868-1958)や下村観山(1873-1930)らと日本美術院を創設、新しい日本画の創作に努めた。1910年以降はボストン美術館中国・日本部長も兼任し、英文で「東洋の理想」や「茶の本」といった書籍を刊行、文明批評を展開した。天心が病死した13年の翌年には、大観や観山らが彼の遺志を継いで日本美術院を再興し、これが主催する院展は、その時代時代に合った新しい日本画を生み出し続けている。院展からは速水御舟、平山郁夫らが輩出されている。生誕150周年、没後100年の節目とし、2012年から13年にかけて展覧会が開かれ、関連出版物も刊行、さらには映画まで制作された。