1922年(大正11)7月15日に結党した。天皇制廃止などをスローガンとして掲げ、45年の敗戦までは非合法政党であった。戦後、公然活動に移行し、連合軍占領下の平和革命方式から、50年代前半の暴力革命路線へと揺れ動いた。55年7月の第6回全国協議会(六全協)を機に宮本顕治主導の党改革を進めた。89年以降の東欧の激動、ソ連型社会主義の破たんで打撃を受ける中で、90年7月の党大会では宮本路線、民主集中制の堅持を決めた。97年4月党大会で宮本議長が引退し、不破哲三委員長体制に移行した。98年6月には北京で中国共産党と31年ぶりに関係正常化で合意した。2000年11月党大会で党規約改正案を決定し、「社会主義革命」「前衛政党」の表現を削除し、災害派遣時の自衛隊の活動を容認した。人事では不破議長―志位和夫委員長の体制を発足させた。04年1月党大会で61年綱領を43年ぶりに全面改定し、天皇制と自衛隊の存続を当面容認する現実路線を打ち出した。06年1月党大会で不破議長が退任、「志位委員長体制」に移行した。07年参議院選挙では比例区のみ3議席の獲得にとどまった。09年総選挙では7議席、10年参議院選挙では3議席、12年総選挙では8議席、13年参議院選挙では8議席だった。14年1月党大会で書記局長が市田忠義から山下芳生に交代した。14年総選挙では「自共対決」を訴え21議席を獲得、躍進した。