1997年12月、普天間飛行場返還合意に伴う海上ヘリ基地建設の是非を問う名護市の住民投票で、比嘉鉄也市長は反対多数にもかかわらず受け入れを表明、辞職した。大田昌秀沖縄県知事は受け入れを拒否したが、市長選は前市長らが推す岸本建男前市助役が当選(2002年2月、再選)。1998年11月の知事選で大田氏を破った稲嶺恵一知事(2002年11月、再選)は1999年11月、15年の使用期限などを条件に移設先を「米軍キャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域」と表明、同年12月、岸本名護市長も受諾した。だが、その後地元住民の反対や環境アセスメントのため、辺野古への移転計画は進展しなかった。2006年4月、キャンプ・シュワブ南沿岸部にV字形の2本の滑走路からなる代替施設建造で、日本政府と名護市・宜野座村との間で基本合意し、日米両国政府もこれで最終合意した。5月には、日本政府と沖縄県の間でも基本確認書が結ばれた。沖縄県と名護市は騒音対策などのためにV字形滑走路を沖合に移動するよう求めていた。09年8月の衆議院総選挙で民主党が勝利したことから、同党が唱導していた普天間基地の県外または国外移設の議論が再浮上し、鳩山由紀夫内閣はこの問題を再検討することになった。連立内閣に参加した社会民主党は同基地の国外移設を強く主張したことから、国内・日米での調整がさらに難航した。鳩山内閣は10年5月末には最終的な結論を下すとした。しかし、10年1月24日の名護市長選挙で受け入れ反対派の候補が当選したことから、一層不透明な政治状況になってきた。10年7月に鳩山内閣が退陣すると、新たに発足した菅直人内閣は、普天間基地の辺野古移設という日米合意に回帰した。しかし、すでに地元・沖縄では県外移設がコンセンサスとなっており、同年11月に再選を果たした仲井眞弘多知事も県外移設を表明していたため、その後も難航した。12年12月に発足した第2次安倍晋三内閣は、13年12月に仲井眞知事と会談し、日米地位協定について環境面を補う協定締結のための日米協議や基地負担軽減案を提示し、仲井眞知事は辺野古埋め立て申請を承認した。ただ、14年1月の名護市長選挙では移転反対派が当選するなど、地元の反対は根強い。(→「普天間基地移設の動向」)