2011年12月北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)国防委員長死亡発表を受けて、その後継体制として成立した三男金正恩(キム・ジョンウン)を指導者とする政権。1994年金日成(キム・イルソン)の死後、長男金正日が絶対的な独裁者として政権を担ったが、2008年以降健康問題が深刻化する中、10年9月、朝鮮労働党・党代表者会、中央委員会総会において金正恩が党中央軍事委員会副委員長に就任することで、後継体制が可視化された。金正恩は1983年生まれで、10代の時、在日朝鮮人である高英姫(コ・ヨンヒ)を同じく母に持つ兄正哲(ジョンチョル)同様にスイス留学経験がある。金正恩は2011年12月朝鮮人民軍最高司令官に就任、12年4月党代表者会と最高人民会議において、それぞれ朝鮮労働党第一書記、国防委員会第一委員長に推戴され、父金正日を「永遠の党総書記」「永遠の国防委員長」と位置づけた。金正日が約20年の後継者としての「修業」を経験し、軍を掌握し、党のイデオロギー事業において実績を積んだのとは対照的に、金正恩の後継修業の期間は短かった。12年には、軍に対する党の指導の回復を図って「先軍政治」とは多少距離を置く姿勢を示し、李英鎬(リ・ヨンホ)をはじめ、玄永哲(ヒョン・ヨンチョル)、金格植(キム・ギョクシク)、李永吉(リ・ヨンギル)ら軍総参謀長を次々に更迭、粛清した。また、平壌市内に遊園地やスケートリンクを建設するなど、若さを前面に出した「親しみやすさ」を演出した。ただし、4月と12月にミサイル発射、13年2月に核実験を強行、さらに3月には朝鮮戦争停戦協定の白紙化を宣言するなど緊張を高めたが、中国の圧力が奏功したためか、5月以降は対話局面へと旋回し、中国を仲介とした6者協議の再開を目指した。しかし、12年4月の憲法改正で憲法前文に核保有を明記し、翌13年3月経済建設と核兵力開発の並進路線を明確にするなど、核保有を既成事実化する中で、6者協議再開はより一層困難さを増す。経済面においては、改革開放、市場経済という言葉は使わないが、地方や企業、農民の自律的な生産と剰余生産物の自己処分を認める方向を導入するようになっている。13年12月叔父張成沢(チャン・ソンテク)に対する粛清、処刑が行われた。そして、中韓関係が密接になったのと対照的に中朝関係は急速に冷え込み、金正恩の訪中は未だ実現されていない。15年に入り中朝関係改善の兆しが見られ、10月10日の朝鮮労働党創建70周年の軍事パレードでは、予想されたミサイル発射は行われず、金正恩の演説では「人民」「青年」という言葉が強調され、並進路線を堅持しつつも、人民生活の向上に留意することがうかがわれた。また、中国共産党序列5位の劉雲山(リウ・ユンシャン)政治局常務委員が訪朝して、中朝の伝統的関係を再確認した。しかし12月、北朝鮮から派遣されたモランボン楽団の北京公演が急遽中止になるなど、中朝関係の先行きが不透明な中、北朝鮮は16年1月6日、4回目の核実験を強行、さらに2月7日にはミサイル発射も行い、従来よりも一層厳格な国連安保理制裁決議が中国、ロシアの支持を得て全会一致で採択されるなど、北朝鮮をめぐる国際緊張が高まっている(→「北朝鮮の核実験(2016年)」)。また、16年5月に、1980年以来36年ぶりに朝鮮労働党第7回党大会を招集することも発表され、党大会開催に向けた党組織や党軍関係の整備・再編、党大会での議題などが関心を集める。