2002年の第16回共産党大会と03年3月の第10期全人代(全国人民代表大会)第1回会議を経て、胡錦濤が党総書記兼国家主席に、温家宝が国務院総理(首相)に選出され、江沢民・朱鎔基体制に代わり彼らが中心となって党・国家の運営が行われるようになった。04年9月に胡は江沢民がなお留任していた中央軍事委員会主席に就任し、党・国家・軍の三権のトップに就いた。胡錦濤は共産主義青年団(共青団。党の下部組織で、最大のリクルート組織)中央書記を経験し、ここに彼の強い人脈がある。温家宝は地質学を学び、胡耀邦、趙紫陽、江沢民の下で主要ポストを歴任。胡温体制は政治局常務委員に江沢民系と言われていた人物が多数を占め、江の一定の影響を受けながらかじ取りをせざるを得なかった。しかしその後、SARS問題、イラク戦争、朝鮮半島問題、台湾問題、微妙な対米関係などを巧みに仕切り、国際的な評価を高めている。07年の第17回党大会では、安定を重視し江沢民系の指導者も政治局常務委員会に残したが、胡温体制はより強化されたといえる。しかし国内では、地域間、階層間などの格差や腐敗が深刻化しており、経済成長を維持しつつも、格差の是正、社会的公正、社会福祉の充実に重点を置いた「和諧社会」、国際社会での「和諧世界」の実現を重視するようになってきた。08年には北京オリンピックを、10年には上海万博を成功させ、またGDPで日本を抜き世界第2位となり、02年の第16回党大会で力説された「中華民族の偉大な復興」を世界に大いにアピールした。12年に胡温体制は幕を閉じ、習近平(→「第4世代/第5世代」)を軸にした新しい体制に引き継がれることとなっている。