1970年代末からイラン、アフガニスタンと続いた南西アジアにおける王政の崩壊は、90年にはネパールにも波及し、この年の民主化運動の結果、ネパールでは立憲君主制憲法が施行された。さらに、2006年以降の民主化運動によって選出された新制憲議会は、08年5月28日、正式に共和制移行を決定した。王政倒壊の最大の原因はギャネンドラ国王の強権政治にあった。01年6月の皇太子による国王夫妻等の殺害事件によって、ビレンドラ国王を継ぐことになったギャネンドラ国王は、早くも02年5月には国会を解散、その後も首相のすげ替えによって強権政治を続けたが、05年2月にはついに非常事態を宣言、首相を解任して親政をしいた。この間王室費を浪費し、報道弾圧を強化した。民主政治回復を求める多くの国民の願いは、同年5月の七党連合(SPA)の結成から、12項目合意を基礎にしたネパール共産党毛沢東主義派(CPN-M、現UCPN-M)とSPAの共闘(同11月)へと進み、06年初頭の地方議会選挙ボイコットを皮切りに、同年4月からは大規模な大衆動員を伴う反王政行動が展開され、4月24日、国王は国会の復活を認めた。国会はさらに、5月18日、軍の統帥権など国王の権限はく奪、国家の世俗化などを決議した。政治の主導権は、当面SPAとCPN-Mに移り、両者は6月16日、制憲議会選挙実施へいたる8項目合意を成立させた。(→「ネパール制憲議会選挙」)