1990年憲法に代わって、より安定的な議会制を求める新憲法制定の要求は、すでに2005年11月の七党連合(SPA)とネパール共産党毛沢東主義派(CPN-M、現UCPN-M)による12項目合意に明瞭にされていたが、06年の民主化運動のなかで、憲法制定議会選挙の実施は、幅広い国民の要求となった。06年6月16日の両派による新たな8項目合意では、さらに進んで現国会の解散、暫定憲法の制定と暫定政権の樹立、国連による軍と武装勢力への監視下での選挙、などが確認された。また、CPN-Mは、この合意のなかで、末端の「人民政府」の解体も約束している。その後06年11月に、SPA政権とCPN-Mの間で、包括和平合意が成立し、翌07年1月に議会は暫定憲法を可決し、CPN-Mも参加する暫定議会が発足した。国軍とCPN-Mの武器管理の監視を目的とする国連ネパール政治ミッション(UNMIN)も07年1月に派遣された。これを受けて4月1日にはCPN-Mの閣僚5人を含む暫定政権が成立した。当初6月20日と予定された制憲議会選挙は、準備が間に合わず、07年11月22日に延期された。しかし、CPN-Mは、9月に入り、暫定議会による即時共和制移行、完全比例代表制による普通選挙などを要求して、9月18日に暫定政権を離脱した。しかし、その後の政府とCPN-Mの協議により、暫定議会での共和制移行を決議し、制憲議会で連邦民主共和制への移行を行うことが合意され、CPN-Mは政権と暫定議会に復帰した。08年4月10日に実施された制憲議会選挙の結果、指名議席も含む全601議席中、CPN-Mは229議席を獲得して第一党となった。以下、ネパール会議派(ネパーリー・コングレス)が115、ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義(CPN-UML)が108議席と続いた。制憲議会は08年5月27日開会され、翌28日、共和制への移行決議を採択した。(→「ネパール連邦民主共和国」)