1885年に創設されたインドの民族運動組織。当初は行政職や総督の参事会員などへのインド人の参加を求める穏健な組織であった。その支持層は都市中産層に限られていたが、第一次大戦以降、マハトマ・ガンディーの登場で農民層も加えた全インド的な組織として成長し、2次にわたる反英不服従運動を通じてインド独立運動の主導権を確立した。会議派は宗教、言語、カーストをこえたすべての「インド国民」の組織を標榜したが、宗教的少数派のムスリムやカースト秩序の最下層に置かれた不可触民の間には、独自の代表組織を求める声も強かった。なかでもムスリム連盟は1940年代以降、「パキスタン要求」を基礎にムスリム多数地域での影響力を強め、それがパキスタン国家の樹立へとつながった。インド独立後、会議派は社会主義者、共産主義者を組織から排除し、ジャワハルラール・ネルー、インディラ・ガンディーらの指導下に圧倒的に優越した政党として中央政治に君臨した。宗教集団間の平等、議会制民主主義、公企業主導の官民混合経済という柱からなる会議派の政治理念は、その後、宗教対立、非常事態宣言(1975~77)、経済停滞と汚職のまん延などによって、次第に信頼を喪失し、77年には独立後初めて非会議派中央政権が誕生した。80年代に政権に復帰した会議派は、84年にインディラ・ガンディー、91年にラジブ・ガンディーを次々に暗殺で失った。こうして90年代には会議派の一党優位政治は崩れ、会議派とヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党が、地域政党などの支持を奪い合う連立政治の時代が訪れた。1998年にはラジブ・ガンディーの夫人でイタリア出身のソニア・ガンディーが会議派総裁に就任した。会議派の現在の課題は、政治理念の再確立、組織強化そして連立政治への適応である。また、連邦下院議員の年齢構成を見ても、会議派は左翼政党についで高齢議員の比率が高い。会議派が、故ラジブ・ガンディーの長男ラフル・ガンディー(70年生まれ)を先頭に指導部の若返りを図ろうとするゆえんでもある。(→「ネルー・ガンディー王朝」)