キューバ革命の指導者であり、20世紀のキューバと世界の歴史に大きな影響を与えた人物。長きにわたって同国の国家評議会議長を務め、2016年11月25日に90歳で死去した。1926年にキューバ東部ビラン村の裕福な農園主の家庭に生まれ、45年にハバナ大学法学部に進学。卒業後は人民党から擁立されて政治家を目指すが、52年にフルヘンシオ・バティスタが率いるクーデターが勃発し、親米独裁政権が敷かれると、武装闘争の必要性の認識を強める。53年、仲間とともにサンティアゴ・デ・クーバのモンカーダ兵営を襲撃して捕らえられ、55年に恩赦で釈放されるとメキシコに亡命した。そこで弟のラウル・カストロやチェ・ゲバラらとともに革命運動を組織し、56年末に「グランマ号」という名の船でキューバに上陸。マエストラ山中での約2年間のゲリラ闘争を経て、59年1月、バティスタ独裁政権の打倒に成功した(キューバ革命)。
キューバ革命政権下では、首相、キューバ共産党書記長、国家評議会議長などを歴任し、約半世紀にわたって同国の一党独裁体制を率いた。冷戦下の国際環境にあって旧ソビエト連邦と関係を深める中で、61年にアメリカと国交を断絶。62年には「キューバ・ミサイル危機」が勃発した。91年に後ろ盾のソビエト連邦が崩壊し、経済が危機的状況に陥ると、社会主義体制を維持しつつ市場の開放を部分的に受け入れる経済政策に転換した。しかし2006年頃から体調を崩し、08年に国家評議会議長の座を弟のラウルに委譲。以後は共産党機関紙「グランマ」への執筆に専念した。その後は公の場で一切コメントを行わなかったが、アメリカとの国交正常化が実現し、16年3月にバラク・オバマ大統領がキューバを訪問した後、機関紙にて懸念を表明した。カストロ死去の報に接し、キューバ国内では高齢者の間で哀悼の声が聞かれる一方、若年層では一般に関心が薄いという世代間格差が見られた。ラテンアメリカ諸国をはじめとする各国の左派指導者からは、偉大なリーダーの喪失が惜しまれ、他方、亡命キューバ人が多く暮らすアメリカのフロリダ州マイアミでは、夜通しカストロの死を祝う宴が催されたといわれる。