いずれも元来は、フーコー(Michel Foucault 1926~84)が『知への意志』で提起した概念。フーコーによれば、死に対する権利(殺す権利)を一つの特徴とする古い君主制の主権に対し、近代以降の政治権力は、生を標的として管理・統制を及ぼす生権力に転換した。生権力には二つの形態、つまり工場・学校・監獄などにおいて身体の規律・訓育を目指す「解剖政治」と、出生・死亡率の統制、公衆衛生、住民の健康への配慮などの形で、生そのものの管理を目指す「生政治」が見いだされ、次第に前者から後者へ比重が移ってきたとされる。
フーコーの洞察はさまざまに受容されてきたが、その一つとして、現行のグローバル化を統制する〈帝国〉のもとに、生権力のラディカルな展開を見るネグリ(Antonio Negri 1933~)とハート(Michael Hardt 1960~)の思考(→「マルチチュードと帝国」)がある。彼らは、既存の諸境界を超える〈帝国〉的生権力の展開を、広範で柔軟な生の管理、また生そのものの搾取と捉えながら、管理・搾取される生のもとに、生権力に対抗する共同的な生のあり方を見いだし、そこにむしろ生政治の可能性を見る。
他方、死の権力としての古い主権権力との連続のうちに生政治を捉えるアガンベン(Giorgio Agamben 1942~)は、政治権力の本来の機能を、多様な生の中から端的に殺害可能な生を抽出すること、いわばただ生きているだけの生(「むき出しの生」)を生産する点に見る。こうした意味で死の権力に先取りされていた生政治は、近代以降その範囲を拡大し、ナチスの強制収容所を一つの帰結としながら、現代では例えば開発の名のもとに、また安楽死や脳死の積極的容認といった形で、「むき出しの生」の生産を拡大・深化させている。
生命操作が爆発的に進展しつつある今日、純粋な生そのものといった次元を想定することの問題性を含め、生権力/生政治をめぐる論点は、アクチュアルな課題として問われているといえよう。