一般に、因果性とは事象間における「原因」と「結果」の結びつきを意味するが、哲学においては、この概念は日常の用法よりも広い適用範囲をもつ。たとえば、アリストテレス(Aristotels BC384~322)は、質料因、形相因、始動因(作用因)、目的因によって世界の成り立ちを説明する四原因論を唱えている。またデカルト(Ren Descartes 1596~1650)は、有限な人間が無限の観念をもつことを根拠として、その原因としての神の存在を論証している。
経験主義の立場から因果性の観念を批判したのはヒューム(David Hume 1711~76)である。彼によれば、「XがYの原因である」というとき、XとYのあいだには空間的近接、XのYに対する時間的先行、Xに類似した事象にはつねにYに類似した事象が結びついて観察されるという恒常的連接(constant conjunction)の三つの関係があるにすぎない。XとYのあいだに因果関係があるというためには、さらに両者の必然的結合の関係が要求されるが、必然的結合を観察することはできない。ヒュームによれば、因果性とは実在のうちに根拠をもつのではなく、人間の想像力が反復的経験を通じて産み出した習慣的結合にすぎない。この批判は、原因と結果とのあいだに想定された必然的結合を、経験から帰納(induction)によって正当化できないことを含意する。しかし、「すべての出来事は原因をもつ」という考え方、すなわち因果律までも否定しうるものではない。カント(Immanuel Kant 1724~1804)によれば、因果律とは経験を成立させている思惟形式なのであって、われわれの認識能力にアプリオリに備わっているものなのである。
ヒュームの批判にもかかわらず、近代科学は因果性を前提しつづけてきた。すなわち、物理的世界においては、すべての結果が原因によって規定されているとする機械論的自然観が前提されてきた。しかし、こうした見方を取るならば、人間による行為もまた先行する物理的事象からの帰結にすぎず、そこに人間の自由意志が介在する余地はなくなってしまう(→「自由/決定論」)。ディヴィドソン(Donald Herbert Davidson 1917~2003)が提示した行為の因果説は、こうした物理学の世界観と、人間の自由意志とを調停させる試みの一つであった。彼によれば、行為者の意図と物理的事象(例えば、脳状態)のあいだにタイプ同一性は成り立たないが、両者は事象としては同一(トークン同一)なのであって、行為者の意図は身体運動(物理的事象)の原因と見なされうる。