言語がある状況において「遂行的」側面をもつことに着目した発想ないし理論を指す。日常言語学派に属するとされるオースティン(John Langshaw Austin 1911~60)がその創始者、サール(John Rogers Searle 1932~)がその後継者と呼ばれることが多い。オースティンは「言語の役割とは真であるか偽であるかを記述することである」と考えるような古典的な思考を「記述主義的誤謬」として退け、言語がどのように使われているか、その「使用」に着目する。「私はこの船をクイーン・エリザベス号と命名する」という文や、「私は明日雨が降る方に賭ける」という発言は、発言が直ちにある行為として理解される「行為遂行的発言」(例えば約束や命令など)である。これはある事態の記述や確認をするような文(「事実確認的発言」)と区別される。「事実確認的発言」が真偽を基準とするのとは違い、「行為遂行的発言」は真偽と関係なく機能し、適切か不適切かという基準で判断される。例えば、命名する発言はそれが受け入れられる状況が整っていなければ妥当でない発言となるであろうし、「~に賭ける」と言った後で実際に賭け金を払わなければ発言は不適切となる。
「事実確認的/行為遂行的」という区別が曖昧(あいまい)であるのはオースティン自身が認めるところであり、彼はそれに代えて発言が3つの基準によって構成されていると考えた。発言はまず意味を持って発言されるという「発語行為」(locutionary act)、さらにその発言によって行為(約束や命令など)が遂行されるという「発語内行為」(illocutionary act)、さらに「発語内行為」によって何らかの効果を生み出すこともある「発語媒介行為」(perlocutionary act)に分類され、オースティンが注目したのは「発語内行為」がもつ「発語内の力」(illocutionary force)であった。