ジャック・デリダ(Jacques Derrida 1930~2004)の哲学的思考を示すとされる語で、単なる「破壊」でも「再構築」でもない仕方でテキストとかかわりあうスタイルを指す。日本語では「脱構築」と訳される場合が多いが、「解体構築」という訳語(丸山圭三郎による)が提案されたこともある。元々フランス語においてdconstructionは「順番を崩して並び替える」といった意味をもつ語とされていたが、一般的に用いられるものではなかった。デリダがこの語に自身の思考のあり方を託した理由の一つは、ハイデガー(Martin Heidegger 1889~1976)が用いた「解体(Abbau 独)」という語のフランス語訳として、この語を機能させることであった。だがこの語はニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844~1900)をはじめとした他の思想家のスタイルとも関連して用いられるため、「脱構築」をハイデガー用語の単なる派生とみなすことはできない。
デリダの「脱構築」は、対象とするテキストを外部から批判したり分析するのではなく、その内部から、テキストが用いる言葉自体を使いつつ、別の仕方で読解を提示するものである。例えば「存在とは現前する(目の前にありありと見える)こと」と解する「現前の形而上学」における存在/非存在というような二項対立の図式に対して、「脱構築」的読解はその二項対立それ自体が成立する条件を探ろうとする。「脱構築」の手法は大まかにはこのように理解可能であるが、テキストのあり方によって読解の仕方も異なる以上、「脱構築」が決まりきった一つの方法として完全に定義されることはない。後年ジャック・デリダの「法の力」(1994)において「脱構築は正義である」と記される時でも、その場合の「正義」が決定済みの一つの概念や規則ではないことに注意すべきである。