「現れるもの」(phnomen)についての学問(logos)、すなわち「現象学」(Phnomenologie)という名称は、ランベルト(Johann Heinrich Lambert 1728~77)やフィヒテ(Johann Gottlieb Fichte 1762~1814)、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770~1831)らによって18世紀後半から19世紀初頭に既に用いられていたが、20世紀初頭において、フッサール(Edmund Husserl 1859~1938)によって厳密な「方法」として規定されたことが契機となり、ドイツ国内のみならず、西洋哲学全般に影響を与える大規模な哲学運動となった。シェーラー(Max Scheler 1874~1928)やハイデガー(Martin Heidegger 1889~1976)、サルトル(Jean-Paul Sartre 1905~80)、レヴィナス(Emmanuel Lvinas 1906~95)、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty 1908~61)、デリダ(Jacques Derrida 1930~2004)らをはじめとする多くの哲学者たちが、その出発点を現象学に負っていたことは興味深い。
フッサールの「現象学」とは、さまざまな先入見を排除して、意識に現れるもの、すなわち「現象」それ自体のあり方を把握し、その経験の本質的な構造を記述しようとする学問である。このような「現象学」における態度は、「事象そのものへ」(zu den Sachen selbst 独)という言葉(この定式化はハイデガーが『存在と時間』第7節で提示したことで有名になった)で示すこともできる。では「現象」とはどのようなものかを考えてみると、「現象」は必ず「意識」に対して現われるものである。「意識」とはそれ自体で存在しているわけではなく、その都度「~についての意識」として存在している。つまり「意識」とは何らかの対象を常に「志向」しているのであり、この性質が「志向性」(Intentionalitt 独)と呼ばれる。「志向性」において、諸対象は何らかの仕方で存在するものとして現われるが、「事象そのもの」を考察するには、それらの対象を実際に存在しているものとして考える態度(自然的態度)をまず取りやめ、いかなる世界の存立をも括弧に入れるという判断停止(epokh 希)をしなければならない。これは諸対象や世界が「偽り」であると考えるのではなく、「妥当である」「間違っている」等の判断を停止することである。このような研究態度を貫くことによって、「自我」や「他人」、「事物」や「時間」等の様々な「現象」についての記述を重ねていくのが「現象学」のあり方であると言えるだろう。