可能態が現実化に至る以前の潜在的な能力を指すのに対し、現実態は可能態の実現されたありさまを指す。可能態をあらわす「デュナミス」は、もともと「能力、力」を意味するものであり、「潜勢態」「能力態」などとも訳される。それに対して、現実態に対応する「エネルゲイア」は「活動状態にあること」を意味するものであり、「現勢態」「活動」などとも訳される。アリストテレス(Aristotels 紀元前384~前322)において、転化(metabol 希)・運動(kinsis 希)といった変化は、可能態から現実態への発展的移行として記述されることになった。その一方でアリストテレスは、変化を「形相/質料」という対によっても規定しているが、この場合、質料が可能態に対応し、また可能態としての質料が形相を得ることが現実態に対応する。さらに、アリストテレスの目的論的自然観においては、可能態から現実態への移行としての変化は、目的の実現としてとらえられることになる。可能態が十全に実現されるに至り、目的(telos 希)のうちにあるようなありさまが「完全現実態(エンテレケイア entelecheia 希)」と呼ばれる。変化を時間的にみる場合には、可能態が現実態にさきだつことになるが、本性的には、目的としての現実態がむしろ可能態に対して優位をもつことになる。トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1225頃~74)は、「自存する存在そのもの(ipsum esse subsistens 羅)」としての神を、いかなる可能態も含まない「純粋現実態(actus purus 羅)」として規定する。このとき、現実化を目指すあらゆる運動は、万物の最終目的としての神へと向かうものとなった。