生活世界とは、科学的あるいは客観的な世界理解に先だって与えられていると考えられる世界である。フッサール(Edmund Husserl 1859~1938)は客観主義批判をする際に、参照項として「生活世界」を取り上げた。客観主義的世界理解においては、対象(例えば物体)の性質が科学的な測定によって数値として把握され、形や重さだけでなく、色や音、味等の感覚的対象さえも科学的測定によって数値化される。科学的測定は事象を把握する一つの方法にすぎないが、数値化こそが唯一かつ真なる世界理解であると思い込むことで、人間が普段接しているはずの豊かな諸現象のあり方を捨象してしまうことになる。フッサールは、客観主義によって隠蔽された領域、すなわち生活世界と、科学的世界理解との関係を問い直したのである。
科学的世界理解に先だつとされる生活世界とは、測定の際には主題とされないままにとどまっているような、「直観」(何かがありありと与えられていること)に満たされた世界である。例えば定規や分度器などの初歩的な測定器具においても、人間が読み取るための目盛りが付いており、それらの数値を「読み取る」ことではじめて「客観的な」測定が可能になる。いかなる「客観的」世界理解においても、数値を読み取るために視覚等の「直観」を経由せねばならないのである。「客観的世界」の成立をそもそも可能にしている「直観」の領域が、地盤としての「生活世界」である。
さらに「生活世界」は上記の地盤機能とは別の側面も持つとされる。客観的・科学的な技術の進歩は人間に幾多もの成果をもたらしているが、それらの諸成果を利用する場合、技術の内実を理解している必要はない。例えばキーを回せば車が動き、パネルに触れるだけでメールや電話が使用できるとしても、それらの仕組みを十全に把握する必要はないのである。近代科学の成果は「生活世界」にいわば「流入」し、人間は諸成果の内実を把握しないままでも技術の効用を意のままに用いることができる。生活世界は「客観的世界」の地盤であると同時に、「客観的世界」の成果を自明なものとして取り扱う領域として論じられた。
「生活世界」概念はフッサール以降の哲学者によってそのまま継承されたのではない。例えばメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty 1908~61)は、「現象学的還元」と生活世界との関係を問題化し、ハーバーマス(Jrgen Habermas 1929~)は「コミュニケーション的行為」の地平と背景をなすものとして生活世界を解釈した。これらの例に見られるように、生活世界はそのあり方が繰り返し問題化されることになったのである。生活世界という概念をいかに捉えるかということそれ自体が、一つの問題であり続けていると言えるだろう。