快を善、苦(不快)を悪とみなし、快楽の追求を人生の目的や幸福であるとする立場。快楽と苦痛だけが人間の行動を動機づけると考える心理的快楽主義や、快楽には道徳的な価値があると捉える倫理的快楽主義に分類される。また、快を享受する主体が自己であれば利己主義、他者であれば利他主義、社会や公衆であれば功利主義と呼ぶことができる。こうした立場には、快楽を追求するならば多くの苦痛を被り、快楽の追求を放棄するならば真の快楽が得られる、という快楽主義のパラドックスのような困難がある。
哲学としては、キュレネ学派のアリスティッポス(Aristippos 紀元前435~前355)が初めとされる。アリスティッポスは、瞬間的に満たされる肉体的・感覚的な快楽を善、苦痛を悪であるとみなした。これに対して、エピクロス(Epikouros 前341~前270)は、肉体的・感覚的快楽は心の動揺をもたらすとして否定し、精神的・永続的な快楽こそを追求した。エピクロスにとって、善とは何ものにもわずらわされない自己充足(アウタルケイア autarkeia 希)の境地であり、快楽とは肉体において苦痛がなく、魂において平静なこと(アタラクシア ataraxia 希)である。
近世以降では、ホッブズ(Thomas Hobbes 1588~1679)が、快楽を善の感覚、不快を悪の感覚と定義し、人々は死の恐怖を避け、安楽や快適な生活を求めるという欲求に導かれて共通の権力へと従うのだとした。また、快をもたらし苦を取り除くことが善だとする功利主義には、快楽を質的に区別せず、量的に計算できるとするベンサム(Jeremy Bentham 1748~1832)の量的快楽主義と、快楽を質的に区別し、より高度な快楽を求めるべきだとするミル(John Stuart Mill 1806~73)の質的快楽主義がある。
精神分析の立場から、フロイト(Sigmund Freud 1856~1939)は、人間の心的過程には快を追求し、不快を避けようとする傾向が備わっているという「快感原則」を提唱した。不快とは興奮の量が増大することであり、快とはそれが減少することである。快感原則は、現実の障害にぶつかると、現実原則にとって代わられるが、その後も無意識を支配し続けるとされる。